許すことの本当の意味 「みんな平等とは?」

さくらんぼ学園の特徴③ 「みんな平等」
私は生きていて
対等じゃない思う瞬間
人生の中で何度もありました。

思い出すのは中学校時代の私です。
中学校時代の少年の私は
いつもびくびく、おどおどしていました。

あれは
中学1年の秋の日の夕方のことです。

暗くなった校舎の脇から
学年で一番威張っていた
Tが私の前に現れました。

僕は蛇ににらまれたカエルのように
どきりとしました。

「ボコッツ!!!」

彼はすれ違いざまに
僕の急所にけりを入れました。

何が起きたのかわからないのと
痛さとで
僕はびっくりしました。

僕の目に見えたのは
うすら笑うTのニキビの顔。

それは、暗く寂しそうに見えました。

空は日がすっかりと落ちて
職員室から漏れる明かり。

僕が痛みをこらえて
うつむいている地面を
その光が、ぼーっと照らしていました。
先生たちは、こんな大変な時に
なんて助けにならないんだろうと
僕は頭の隅で思いました。

「困っても助けてくれる人はいないだ」

「困った時は、自分で何とかしなくては
いけないんだ」

そんな間違った信念は
その後、長らく僕の中に
しみこんでしまいました。

あの時代の先生たちで
本当に親身になって

子どもの話を聞いてくれる先生は
いたのでしょうか?

少なくても僕の周りには
そういう先生はいませんでした。

*****

「あの時、ほんとはどうなればよかった?」

その答えは、
もちろんいじめられなくて
もし、力の強いやつにやられても
蹴り返す力を持ちたかったです。

でも、現実はやられて
やり返すこともできませんでした。
あの悔しい体験の中で学んだことは
2つあります。

1つは、やられて悔しい子の気持ちが
わかるようになったことです。

一度もいじめにあったことのない人には
その子の悔しさがわからないからです。。
そしてもう1つ
もっと大切なことがあります。

『許すこと』の本当の意味を知ったことです。

僕が許すのは、
蹴っ飛ばしたTのことでは
ありません。
蹴っ飛ばされても
生きてきた自分を
許すのです。

「ふざけんなー」
「ばかやろうー」

「ぶっ飛ばすぞー」
「殺してやるー」

「俺に謝れー」
「お前のことなんか許してたまるか」
「地獄に落ちろ!」

そんな言葉をいうことを
許してあげればいいのです。

そして
「悔しかったよね」
「痛かったよね」

「殺したいくらい憎かったよね」

そういって
慰めてあげれば、いいのです。

そしてすべての気持ちを受け止められたら、
こう問いかけてみます。

本当に言いたいことは何なの?

おいT。
お前は、お前の人生にぶつかれよ!

力の弱い俺たちにではなくて
お前が本当にぶつかるものに
勇気もってぶつかれよ!

それができないお前は弱虫じゃないか!

本当は
お前にはそれができるだろう!
そこに向かって
本気でぶつかれよー

******

僕たちの
「心の深いところ」には
憎しみが存在しません。

本当は、人を信じていて
応援する気持ち
あふれているのです。

僕を蹴ったTの本当の想いは
何だったんだろう?

アントニオ猪木の
ビンタのように
気合を入れたかったのかもしれません。

あいつなりの
エールだったのかも知れません。

今となっては
本当のことは確かめようがありません。
でも大切なことは事実ではなく、
僕たちが、過去の歴史を
どう解釈するかです。

僕たちたちは
考え方を選ぶことができます。

僕にとってはTの一撃は
人生を動かした、
一発でした。

当時の僕は傷つくしかありませんでしたが、
今の僕には大切な「ネタ」です。

そんな意味では
感謝なのかもしれませんね。

もちろん、それは
耐えてくれた
当時の自分にですよ。
私たちは「幸せ」も「不幸」も
どちらでも選ぶことができるんですね。

*****

僕たちは悲しみや苦しみにあった自分を
どこかに閉じ込めてしまいます。

でも、本当の心の癒しや
気持ちの解決は

やられた自分を許し、認める中に
誕生していきます。

心にある気持ちは
すべて意味があります。

すべてに目的があります。

言ってはいけないと閉じ込めた言葉は
魂を傷つけてしまいます。

「ぶっ殺すぞー」

「そうか、ぶっころしたいんだねー」

そんな言葉を受けられた人は
きっと人を殺すことはないでしょう。

十分に受け入れられて
初めて人は許すことができるのです。
「そんなこと言わないで
許してあげなさい」

そんな言葉では、
人の魂は救うことはできません。

こんなところに
私たちコーチやカウンセラーの
存在する意味があるのですね。

********

あの当時、流行っていた金八先生。

「あれはドラマの中の出来事ですから
私たちにはあれを期待しないで下さい」

保護者会に出た母親に
先生たちは言ったそうです。

確かにあれはドラマの世界ですが、
あんなふうに体当たりしてくれる大人
本気で生きている大人がいれば

僕たちは、あこがれを持ったでしょう。
希望を持ったでしょう。

でも、そんな体験の中で
勇気がない大人たちの存在を
私は知りました。

勇気をくじかれた大人は
今も昔もたくさんいます。

きっと先生たちも
勇気を誰かにくじかれたのです。

私たちの勇気の力は、
誰かの勇気を
奮い立たすことができます。

私たちの住む毎日が
勇気づけられたり
勇気づけたり

そんな循環で満たされたときに
どんなにか素敵な世界が
生まれるでしょう。

学校で困っている子どもたちの
勇気になりたい!
たとえ一番力の弱い子でも
一人でもその子のことを

信じてくれる存在がいたら
勇気がわいてきます。
この世の中に人の役に立たない人間は
一人もいません。

だからこそ、
私たちは対等なのです。

助けられることは
恥ずかしいことではありません。

助けられることで
それが誰かの勇気に
つながることがあります。

だから私たちは
対等なのです。

繰り返します。
私たちはみんな平等で
対等なのです。

watasitatigasixyuzinnkou

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